20250217 73

最高の盃を探して

毎晩、日本酒で晩酌をする。
酒が強いわけではないから、一合を基準にしている。多くもなく、少なくもなく、ちょうどいい量だ。

これまで、酒器の探究にはずいぶん熱を上げてきた。
気がつけば、コレクションとも商品とも言える品々が増えている。古美術の盃、無名の焼き物、蔵出しの利猪口──どれもそれぞれに良さがある。
それなのに、どこか納得できない自分がいる。

「これが一番だ」
そう言い切れる器に、まだ出会っていない気がするのだ。

もっと可能性があるのではないか。
そう思うと、つい、また違う盃で飲んでみたくなる。

もちろん、純米なのか吟醸なのか、という話はあるだろう。
酒の個性に合わせて器を選ぶ、という楽しみ方も理解はできる。
けれど、私が本当に欲しいのはそういう“正解集”ではない。

欲しいのはただ一つ、
何にでも一番合う、最高の器だ。

酒蔵で使われていた昔の利猪口は、やはりうまい。
余計な主張がなく、酒の輪郭がはっきりと立ち上がる。
味だけを見れば、あれ以上のものはなかなかない。

ただ──色気がない。

では色気を求めて古美術に向かうとどうなるか。
今度は、器の景色や存在感が勝ってしまい、酒が少し引いてしまう。
味が足りない、というより、酒が前に出てこない。

しかも美術品は、たとえ安い部類であっても高価だ。
あれもこれもと、気軽に手を出すわけにはいかない。
このあたりも、現実的な足かせになる。

季節やアテ、酒の種類によって器を変える──
その風光明媚さは分かる。だが正直、面倒臭い。
毎晩の晩酌に、そこまでの作法は求めていない。

だからこそ、「一つの最高」にこだわってきたのだ。

そんな中、最近やっているのが、
盃をいくつも出してきて、思い思いに使うことだ。

徳利と盃が卓上に並び、まるで小さな宴のようになる。
一口ごとに器を変えると、同じ酒なのに味が違う。
丸く感じたり、締まって感じたり、余韻が伸びたりする。

不思議と、飽きない。

目を楽しませ、舌も楽しませてくれる。
賑やかで、少し雑で、それでいて豊かな時間だ。

そこで、ふと気づいた。
もしかすると、最高の器を「一つ」に決めようとすること自体が、間違いだったのではないか、と。

一つで全てを満たす器は、存在しないのかもしれない。
けれど、行き来できる複数の器が並ぶ状態は、結果として何にでも合う。

選ばなくていい。
決めなくていい。
その時の感覚に任せて、ただ注ぎ、飲む。

なるほど、これでもいいか。

そう思えた夜の結論は、
なんともお粗末で、しかし不思議と腑に落ちるものだった。

最高の器とは、
もしかすると「器そのもの」ではなく、
迷わず酒に向かえる、その状態のことなのかもしれない。

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