結局、美そのものにしか答えはない。
それを内包した「モノ」、そしてそれを見抜く「目」。
美とは、モノと目の関係性に宿る。
「美の懐」とは、モノの問題ではない。
それを見る目がどれだけ養われているかの問題だ。
どれだけの時間を美に費やし、
どれだけの痛みと共に美と生きてきたか。
その厚みが、懐の深さになる。
歴史を金で買う者がいる。
だがその多くは、未来に興味がない。
彼らは過去に生き、過去にすがり、過去に飽きることがない。
もちろん、未来の美を捉える目を持つ者もいる。
だが、過去も未来も高すぎる。
どちらかにしか賭けられないのだ。
私自身、もし現代アートに出す金があるなら、
その金をアンティークに注ぎたい。
それは投資ではない。欲望でもない。
ただ、取り憑かれているのだ。病気のように。
現代アートにも、注目している作家はいる。
しかしすでに高額で、無名ではない。
出遅れた。いや、手を出すことに意味を見いだせなかった。
なんにしろ、モノを「買う」という行為だけが、
作家にとって唯一、誤魔化しのない評価である。
いくら口で褒められても、
買わないということは、つまり侮蔑なのだ。
美に触れるとは、懐をひらくこと。
身銭を切るとは、自分の時間と命を手放すこと。
その覚悟がなければ、美の深さなどわかるはずもない。
