美について語るとき、必ず金額の話になる。
だがそれを忌避しているうちは、美についての対話には立ち会えない。
「自分の手の届く範囲で」などと口にした時点で、美はその土俵から消える。
無理をしてでも欲しい。
それでも手に入れたい。
その衝動こそが唯一の真実である。
そうやって無理をして手に入れた一点との対話。
その一点に身を削って向き合うという体験の積み重ねだけが、
“美を見る目”を育てていく。
いいね、欲しい、スゴイ。
でも高いから自分には無理だなー笑。
――これは無関心と侮辱の言葉だ。
「こんなものにこの値段を出すのか」という呆れもあれば、
「これがこの値段で手に入るのか」という驚きもある。
基本的には後者こそが、美に触れる正しい反応だ。
100万、1000万、1億の世界。
それが当たり前に転がるのが、美の世界。
サイズや署名、保存状態、来歴……
付加価値と競争によって価格が変動する。
だが、美そのものの力は変わらない。
芸術家はこの“既存の美”を更新しようとする。
作品で歴史に挑み、価値の地図を書き換えようとする。
私自身は、古美術の中に美の顕現を見る。
目の前に、まざまざと立ち現れる。
思想でも歴史でもない。
ただ、美の結晶がそこにある。
そして私は、身震いする。
それは、現代作家には得難い感覚だ。
いくら思想がカッコよくても、生き様が魅力的でも、
その核に「震え」がなければ、私にとっての美ではない。
美を本当に見るには、同じ感性の次元に立たなければならない。
その次元に至るには、所有するしかない。
所有することでしか、美は“実感”にならない。
評論では届かない領域がある。
ゆえに、美を買うとは――命をかけることなのだ。
