20250217 14

「美を買う」という覚悟

美について語るとき、必ず金額の話になる。
だがそれを忌避しているうちは、美についての対話には立ち会えない。

「自分の手の届く範囲で」などと口にした時点で、美はその土俵から消える。
無理をしてでも欲しい。
それでも手に入れたい。
その衝動こそが唯一の真実である。

そうやって無理をして手に入れた一点との対話。
その一点に身を削って向き合うという体験の積み重ねだけが、
“美を見る目”を育てていく。

いいね、欲しい、スゴイ。
でも高いから自分には無理だなー笑。
――これは無関心と侮辱の言葉だ。

「こんなものにこの値段を出すのか」という呆れもあれば、
「これがこの値段で手に入るのか」という驚きもある。
基本的には後者こそが、美に触れる正しい反応だ。

100万、1000万、1億の世界。
それが当たり前に転がるのが、美の世界。
サイズや署名、保存状態、来歴……
付加価値と競争によって価格が変動する。
だが、美そのものの力は変わらない。

芸術家はこの“既存の美”を更新しようとする。
作品で歴史に挑み、価値の地図を書き換えようとする。

私自身は、古美術の中に美の顕現を見る。
目の前に、まざまざと立ち現れる。
思想でも歴史でもない。
ただ、美の結晶がそこにある。
そして私は、身震いする。

それは、現代作家には得難い感覚だ。
いくら思想がカッコよくても、生き様が魅力的でも、
その核に「震え」がなければ、私にとっての美ではない。

美を本当に見るには、同じ感性の次元に立たなければならない。
その次元に至るには、所有するしかない。

所有することでしか、美は“実感”にならない。
評論では届かない領域がある。

ゆえに、美を買うとは――命をかけることなのだ。

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